われを頼めて来ぬ男 角三つ生ひたる鬼になれ
『梁塵秘抄』四句神歌 339
さて人に疎まれよ 霜雪霰降る水田の鳥となれ
さて足冷たかれ 池の浮き草となりねかし
と揺りかう揺り揺られ歩け
「我を頼めて来ぬ男」の中の動詞「頼む」は、あてにする、頼みに思うの意味だが、ここでは他動詞で、あてにさせる、頼みに思わせるの意味。なので、「我を頼めて来ぬ男」は、私をして、頼みに思わせておきながら、夜離れして来ない男の意味になる。
「霜雪霰降る水田の鳥となれ さて足冷たかれ」とあるけれど、鳥は実際のところ冷たいと思っているのだろうか。少し気になったのでネットで調べてみた。
何でもワンダーネットと呼ばれる静脈と動脈が絡み合う血管の構造によって、体の末端をめぐる血液が暖められることで、冷えた血液が戻って体の深部を冷やすのを防ぐためにからだの末端の血管を収縮させる必要があまりなく、その結果、足の先が血行不良にならず、水の中に足をつけても凍傷になることもないらしい(参考サイト: 凍傷にならない水鳥の驚きの仕組み)。あまり心配はいらないようだ。
当時の人に、そのような知識はなかっだろうけれど、冬場に水の上に立つ鳥を見て、冷たそうにしか見えないけれど、あまり冷たそうにしているようにも見えないぐらいには思っていたかもしれない。
歌の構成としては、比喩が三つ連なっているが、鬼、鳥、浮き草と、比喩の対象とするものが、大きいものから小さいものへと、割と均等な割合で縮小していっているのが見て取れる。このデクレシェンドは心の動きを象徴するものともとれるし、その縮小、時間軸の中でだんだん弱くなるところの行きつく先が、浮き(憂き)草であるのも、周到な表現と言えるだろう。